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このページは小宮山万里子が書いています。


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後援会長=菊池國仁氏、応援団長=喜田孝氏

と建クンをつなぐものは・・・(國仁氏編)

                                                      2002年4月8日

  國仁氏、孝氏を知らない人ーあなたはモグリじゃないですか?かくいうほど、二人は八丈島では有名人です。
 ところで、この二人と建クンを結ぶものは?
   はい、農業です
 一応当たり。当たったあなたはかなり八丈に古くからいますね。建クンは、その昔お百姓さんでした。今でも、切り花研、とかの会員に名前が残っていますし、ソフトボールの試合では農業チームで参加したりしております。お二人とはその時からの仲間です。
 しかし、それだけでこんな重要なポストを引き受けてくれるほど、世の中甘くはありません。三人を結ぶ重要な因子、それは、わが父、通称、大工のイサちゃんです。

 イサちゃんは、亡くなって六年目になります。百才は生きようかというバイタリティーも、最後は、何も思い残すことはない、とあっさり生を捨てました。それもうなずけるほど、類まれなるわがままで、自分流に人生を楽しんだ人です。一見、竹を割ったように見える職人肌の性格も、実は餅をついたような執念深さと裏腹であり、その性格そのままに、落語ネタのようなエピソードには事欠きません。そのエピソードだけで直木賞はいける、と踏んでいるのですが。
   生前はまるで八丈島に住んでいるごとく足繁く来ていました。かなり大工の仕事もしました。私たちの家新築二軒、公文の教室、他に新築二軒、建て増し一軒、口利き多数。最初は、いわゆる孫かわいさからでしたが、それがいつからか國仁さんに会いにくるような感じになっていきました。

 二人の共通項は建築、國仁氏はイサちゃんを島中の様々な建築現場に案内しました。だけど、それだけじゃない、フィーリングが合うというか、波長が近いというか、いや、ここにこそ國仁氏の人徳、偉大さがあるのでしょう、イサちゃんほどの勝手モンを心底相手にしてくれたのですから。

 イサちゃんは超主観主義ですから、自分がいいと思うものは絶対です。國仁氏が自邸を建てたとき、もはや棟梁として関われないことは自覚していました。そんな自分に何が出来るか。イサちゃんは風呂桶と下駄箱を作ろうと思いました。それも世界に二つとないものを。そして檜の大きな桶を苦労に苦労を重ねてしつらえました。結果として、材料費がかなり高いものになり(私が調べたところ、もっと安くて良い既製の木の風呂桶がある)、絶対に最高の風呂桶と下駄箱を作ったと思っているイサちゃんの自慢話にいつもつきあわされることになり、それでも國仁氏はすべて受容し、おまけに手間賃まで支払ったのでした。しかし、イサちゃんとしては手間賃は受け取れねえ。で、どうしたか。浅草に繰り出し、高級な手掛け(襖に付いている手を掛けて開け閉めするところ)に全手間賃をつぎ込んだのです。

 ウッ、ウーッ、まるで人情ものの世界じゃござんせんか。國仁氏の篤志家ぶりを十二分に物語っているでしょう。二人の関係の微妙なニュアンスもお汲み取りいただけましたか。國仁氏のお宅を伺う機会がありましたら、ぜひ、下駄箱、風呂桶、そして手掛けも見てやってくださいまし。

 かくいうわけで、建クンは、イサちゃんの草葉の陰からの支援を得て、人望厚い國仁氏を後援会長に迎えることが出来たのです。そして、また次なる孝氏に連なっていくのですが。(続く)

 

 
 


後援会長=菊池國仁氏、応援団長=喜田孝氏

と建クンをつなぐものは・・・(孝氏編)

                                                      2002年4月5日

 國仁氏と息子(建クン)以上の関係を築いたイサちゃんは、とうとう結婚式にまで招待されました。そこで出会ったのが孝氏です。孝氏は、ご存じの通り印象深い方です。しかも独身と聞き、イサちゃんの義侠心がメラメラと燃え上がりました。ヨッシ、ここはおれが一つ骨折ってあげよう・・・。國仁ご夫妻の熱気に当てられたのかもしれません。

 自宅(東京の大森)に戻るとさっそく嫁さん探しを始めました。すると、いました、いました、いい人が。大工道具の目立て(手入れ、修理)をしている桐山さんちの薫さんです。どうやって桐山家を説得したのか、夏の盛り、薫さんとお母様がイサちゃんと一緒に来島し、お見合いが成立しました。この当時の夏はストレチア丸も満杯で、薫さん達は階段で休まれたそうな。その、船の混雑を意に介さず堂々と眠った薫さんの根性ぶりに、ますますイサちゃんは惚れました。孝氏の奥さんとしてはサイコーだ、イサちゃんは、当人達を差し置いて、勝手に決めていました。

 お見合いって、たとえ当人同士が何となくいいなーと思った場合でも、どこか少し躊躇がある、そこを結婚にまで踏み切るには、やはり何らかのプッシュが必要です。この場合は、イサちゃんのごり押しではなかったかと思っています。孝さん、薫さん、強引な親父でごめんなさい。でも、その後のお二人を見れば、そしてとりわけ薫さんの島での活躍を見れば、同郷の者として、鼻が高いし、イサちゃんの先見の明は、めずらしくほめられるべきものではあります。

 孝氏ご自身は、間違いなくサイコーの奥さんをもらったと思っているはずです。その証拠は、今回、快く応援団長になってくれたことですよ。孝氏は、島のお年寄りのアイドルとも言える人で、つきあいが広く、住人の親戚関係にもめっぽう詳しい。また、不思議なカリスマ性を持ち、あの独特の声音と島弁で「タノモワヨー」と言われれば、誰も拒めないでしょう。応援団長としてみんなの垂涎の的です。建クンは百万の味方を得たも同然です。

 イサちゃんの義侠心を揺さぶった喜田ご夫妻は、イサちゃん亡き後もこうして律儀に労に報いてくれました。

 

 後日談です。孝氏の縁談をまとめた人として、イサちゃんは一時名を挙げました。二匹目のドジョウを狙って、嫁さんを頼みにみえた方もいます。しかし、もうおわかりのように、イサちゃんは勝手モンのうえに気が短い、仲人なんて柄では全然ないのです。孝氏ご夫妻の成功はまさに奇跡!その後の嫁さん探しは、ことごとく失敗に終わりました。

 もう一つ、後日談。薫さんの紹介で、大森出身の嫁さんがもうひとかた誕生しました。大賀郷で活躍されています。いやー、大森出の女性は島を支えていますなー。

 

 


建クンの趣味はテニス  FBT2のエピソード1

                                                      200 2年1月17日

  建クンがテニスを始めたのは、もう7年ぐらい前になるだろうか。私は八丈島に来たすぐあたりからいわゆるママさんバレーボールを始め、スポーツのおもしろさにはまっていたが、建クンもズウーッとなにかスポーツをやりたいと思っていたのだ。

 ある日、建クンは、富士中裏の壁打ち用コートで、独り練習に励む男性と出会った。思えば、これが、わがテニスコーチK氏との運命的出会いであった。そしてその直後、K氏は我が家へ電話機の設置工事に顔を出したのだ。このわずか2回の邂逅で交わした簡単な会話の中での「実はテニスをしたい」という希望を、K氏はいとも簡単に、しかも極めて快く受けてくれたのである、「じゃー、今度の土曜日から来ればぁー」。

 K氏率いるテニスクラブは不思議なクラブであった。メンバーはコーチ以外は全員女性、しかも、タミ、ハミ、アミ、スミ、チミ、もひとつアミ、と、名前の終わりにの付く人ばかりだった。いわばコーチはハーレム状態だったのだが、ここに1人、男を迎え入れるとは、K氏も度量の大きい人である。

  さて、建クンは喜び勇んでテニスコートに行ったものの、「誰もいなかった」と寂しく帰ってくるときが多かった。こうなると、私も女だ、一肌脱ごうじゃないの、お相手したぁーるわよ、と相成った。ここに、初めての男性メンバーと名前の終わりにミのつかない女性メンバーが加わったのである。

 これ以降、K氏ご夫妻と私たち夫婦を踏み台とした、ある種強力なチームが作られていくことになる。名前も建クンが、FBT2(Forever Beginners Tennis Team)と命名した。これには、テニスを始めた時の気持ちをずっと持ち続けようという美しい精神哲学が込められているのである。まあ、簡単に言うと「初心忘るべからず」だけどね。しかし、命名者の意に反して、「永遠にヘボ」と誤解してしまう人が多く、そしてなにやら名が体を表す感がなきにしもあらず、ということもあって、K氏は実は改名を望んでいるような……。

 何はともあれ、建クンは、趣味の欄にテニスと書き、ラリーを一応楽しめるほどの腕前にはなった。FBT2も、名門HTC(八丈島テニスクラブ)と数の上では比肩するチームに成長した。そして、プラスαの魅力を求めての入会が後を絶たない。プラスαとは何かって?まあまあ、それは、入会してご自分で実感してください。
 

 
 


我が輩はリッキーである

                                                      2002年1月10日

 我が輩は犬である。名前は、もうある。リッキーという。年は8才。
 実は我が輩は養子(養犬?)である。今年になって正式に小宮山リッキーとなった。

 生まれ故郷は隣の三宅島、そこで多感な青年時代を送っていたのだが、あるとき空から灰が降ってきた。三宅に住んでおれない事情になってしまったらしく、ほかの仲間と一緒にこの八丈島にやってきた。そして八丈動物病院の獣医師である幸子先生の紹介で小宮山家に居をかまえたのである。

 いや、最初は我が輩も面食らった。この家はご主人と細君の二人暮らしだが、我が輩が物珍しかったのか、このふくよかな肉体が気になったのか、朝夕の散歩に追いまくられた。我が輩は、三宅島では、上げ膳据え膳の優雅な暮らしをしておったのだ。それが突然のこの生活の変化である。ある時なんぞは、ご主人の車を取りに永郷の近くまで同行させられた。そんなところまで走れるか、というので途中でストライキを起こしてやった。ご主人は引いても押しても動かない我が輩を残して、独りで行ってしまった。そのあとは車で景色を見ながらゆったりと帰ったのは言うまでもない。

 最近は走り回ることが痛快になってきた。玄関からご主人や細君が顔を見せると、我が輩は散歩のウォーミングアップをする。まず前足をそろえて思い切り伸ばし、それから後ろ足だ。ご主人達はこのポーズが可愛いいとえらく気に入っているようだが、人間だってスポーツの前にアキレス腱を伸ばしている。それと同じことである。

 この家に来たばかりの一昨年の夏頃は、夜必ず細君が顔を出し、我が輩に人間の食べ物を(多分残り物だろうが)持って現れた。つまり我が輩は朝夕2回の食事+ワン!じゃなかった、ONEを必ず得ていたのだ。それが周りの人間どもに、やれ我が輩がデブだ何だと言われ、+ONEの回数がグンと減ってしまったのだ。今でも我が輩は、夜細君がどこかから帰ってきた時などは、もう一度我が輩への食べ物を手に現れるのではないかと、じっと玄関を見つめておったりしてしまう、いやはや。

 ところで、環境は違えど、新しいご主人と細君には当初からなにやら親しみのようなものを感じていた。何しろ前のご主人の名前は、武氏、真里子氏、今度のご主人の名前も建氏、万里子氏、字こそ違え読み方は同じ、不思議な縁(エニシ)を感じてしまうのである。

 

 
 


建クンのなまえ、誤字率8.5%!

                                                      200 2年1月5日

  “たけし”と聞いておおかたの日本人はどう書くか。まあ、普通は“健”(猛、武、なんてのもあるけど)ですよね。ところが、コミヤマタケシは“建”と書き、この由来については「プロフィール」にも述べています。しかし、日本人の常識に捕らわれている人の何と多いことか!
 今年届いた年賀状はまたしてもそれを雄弁に語っていました。8.5%の割合で“小宮山健”と書かれていたのです。しかも相当に親しい方からの年賀状にも!
 これを覗いているあなた!間違えていませんでしたか? また、今後どう書くのか迷ったなら、どうぞ名前の由来を思い出してください。8月15日に生まれたので建国を記念して“建”と名付けたのだと(ちょっとテレる由来ですね)。


 

 

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